其の三十 『書き始めたら、思い出すことばかり』 | カイロプラクティックジャーナル

  其の三十 『書き始めたら、思い出すことばかり』

カイロプラクティック、オステオパシー、手技療法の最新情報、セミナー案内、関連書籍・DVDの販売

カイロジャーナル TEL.03-3434-4236 〒105-0013 東京都港区浜松町1-2-13江口ビル別館

斎藤信次残日録 其の三十 『書き始めたら、思い出すことばかり』2019.01.20

切羽詰まるだけ詰まって先週後半から書き始めたブログだが、いざ書き始めたら書くことはそれなりにあって、それなりに進んでいるようにも思えるが、やはり脱線が多く長文になるクセは一向に直らないようだ(前々、方々から「長すぎる」と指摘を受けている)。

にもかかわらず、アップされた原稿に目を通すと、あれも書けば良かった、これも、となってしまう。其ノ二十八でも、「ギャンブル」は余計だったな、「源兵衛」と「中川さん」のところは、あれもあったな、これも、と無尽蔵に湧いてくる。また機会があるときにとも思うが、今度いつ折良く思い出せるんだろうと気にもなる。ウーン、もどかしい!

やっぱり書いちゃおう、「源兵衛」のこと

私が店に行き始めた頃、私は18歳、オヤジは36歳、ダブルスコアだった。私はオヤジ、オカミサンを「おじさん、おばさん」と呼んでいたが、今考えると30代半ばの人の呼称ではない。でも、自然にそう呼んでいた。そんな関係になってから、店がハネたあとにオヤジ、オカミサンのファンがそのまま残り、朝(朝刊が配達される)まで飲んで話すことがよくあった。またオカミサンがいないときに、オヤジが売上の入った小引き出しからちょいと抜いて、飲みに連れていってくれたこともあった。

ただの変わり者か、豪傑か

そんなとき、「昔は初めて店に現れた学生が、勘定のときにいきなりノートを出して、『仕送りが来るまでツケでお願いします。ツケはこのノートに付けますから』みたいな、とにかく無茶苦茶な奴がいたもんだよ! でも、そういう奴に限って卒業後も懐かしそうに顔を出してくれるんだよ」などと昔話をしてくれた。もうかれこれ50年近くも前のことで、さらにその前のことだが、なぜかその通りにして上げている。

人を説得するって、人を動かす魅力って、人から愛される人間像って、とさりげなく教えてくれていたような気がする。その後、そんな傑物とはなかなかお目にかかれないが、ただの変わり者と片づけるのではなく、なぜこの人はこうできるんだろうと、一側面じゃなく、じっくり人を見るクセをつけてもらったような気がする。因みに、オヤジの口癖は「人っていいなぁー」だった。含蓄のある素晴らしい言葉だと、今更ながらに思う。オヤジが言いたかったことを、自分なりに少しでもわかれたらいいな!

早稲田の野球関係者がズラリ

明治にラグビーの北島忠治監督あれば、早稲田に野球の石井藤吉郎監督あり、と並び称される方が先々代からの常連で、時代劇で視る花も実もある名主様のような、正に店名主的存在だった。オヤジを呼びつけにし、オヤジも頭が上がらなかった。子どもたちは、野球のおじさん(お爺さん)で「やじぃー」とか「やじさん」と呼んでいた。そんな関係で、神宮のチケットは簡単に手に入り、私などもお相伴に与ることがあった。法政当時の江川をバックネット裏で観る機会があって、本気を出したとき(ピンチでここは三振というとき)のスピードはハンパなかった。ホントにいいもの見せてもらった。

石井さんのお陰で早稲田の野球関係者も頻繁に出入りしていた。プロ、アマ問わず名を馳せた選手たちが、正に百花繚乱という感じだった。ヤクルトの左のエース・安田さん、巨人のセンターで不動の一番バッター・松本、江川世代のキャッチャー・山倉などなど、数え上げたらキリがない。近くに安部磯雄氏ゆかりの安部球場や野球部の安部寮があったので、松本や山倉は新入生当時、先輩に言われてなのか、自分たちの夜食なのか、表ではなく裏の通用口から、よく「カツライス弁当」を買いに来ていた。

カツライスとライスの大盛り

カツライスで思い出した。カツライスには並と上があって、私が「カツライス」と注文すると、「ハイ斎藤君、下カツ一丁」とわざと大声で言う。そのうち、自然に「下カツ」と注文するようになっていた。しかし、他にもカツライスを注文している人がいたのだから、その人たちに対してちょっとまずかったなと思うが、今頃言っても遅いか!

また、早稲田の体育会系の人に食べさせようと、ライスの大盛りは桁外れの量だった。丼からこぼれてもいいように皿を敷いて出され、優に3合は入っていようかという代物だった。私も調子に乗って一度ならず二度もチャレンジした。初めてのときは、もう少しとなったときにおかずがなくなり、オカミサンが梅干し、お新香、ふりかけなどを出してくれ(通常はそんなサービスはない)、やっとのことで完食した。2回目は1回目の反省を踏まえ、楽ではなかったが完食。結果、二度とも成功した。

しかし今考えると、体育会系の人たちのためにというサービスを、私は食べたくて食べたわけではなく、何か普通と違うことをしたかっただけのように思える。食べ物を捨てずに済んだことだけが救いだ。若気の至り以外の何物でもない。そのときのことを思い起こすと、われながら恥ずかしくなり思わず赤面してしまう。今もそんな若さを持ち続けられたら、本当に自分を褒めて上げたいが、若さを鼓舞しての蛮行は慎まないと、体調を崩して高くつくのが関の山だ。生死をかけるのなら、軽挙妄動にならないよう、少なくても私の人生でこれまでお付き合いいただいた人たちのために、何かお役に立てたらと思うだけだ。そんなことに果たして出くわせるか?

オカミサンとケメコ

ヤクルトの安田さんが来るとき、よくチームメイトを連れてきた。大杉氏が来たときなど、シャレでフジテレビの「プロ野球ニュース」の週間か、月間MVPでもらった賞金を前に、オカミサンとチンチロリンの勝負をしたことがあった。結果はオカミサンの圧勝だったが、賞金の束が渡ることはなかった。

オカミサンも肝の据わった実に豪快なところを持った人だった。店にはもう出ていないが、いつまでも元気でいていただきたいと願うばかりだ。「田舎料理 けめこ」という店をやっている通称「ケメコ」という女性がいて、この女性もオヤジ、オカミサンと深い関わりがあり、店が仕込みをしているときなどによく顔を出していた。あるとき、オカミサンが急に「ケメコ、斎藤、ダイエットするから縄跳びするぞ」と言ってきた。ケメコはともかく、私はそう言われたら縄跳びを持って馳せ参じるしかない。場所は店の横の路地、早稲田通りを通る人からもモロに見える場所で、「何やってんだ?」という視線を浴びながら、ただひたすら飛んでいだ。長く続かなかったことが救いだった。因みに、もう古希を迎えたケメコとは、店を閉めた今でも付き合いがある。エピソードには事欠かないが、紹介するには、オカマとか、新宿2丁目とか、避けて通ることのできないネタがありすぎて、これだけは遠慮しておこう。

カッコつけないカッコ良さ

就職してからも、「あんたんところ、銀座から近いんだろ、今いるから来れたら来なよ」などと、いきなり電話がかかってくることがあった。そんなとき、当たり前のことだが屋号ではなく苗字を名乗ってくるので、電話を取るまで「誰だ?」とオヤジとは気づかないことがあった。外で会うオヤジは、店の厨房で黙々と鍋やフライパンを振っているときとは、別な一面を見せてくれた。カッコつけないところが、とにかくダンディーでとてもカッコ良かった。

クロは見た! 早稲田の13年

これは夕刊フジに見開きで紹介された記事の見出しである。源兵衛はクロという大型の雑種犬を放し飼いにしていた。この犬が近所の犬たちのボスで、いつもそこ、ここの犬を引き連れていたらしい。早稲田通りを都電が走っていた頃で、私はその姿を知らない。放し飼いで保護され、オヤジが引き取りに行ったのも一度や二度ではなかったようだ。当時、土間にパイプ椅子だった店の中にいる姿を見たことがあったが、飲食店に犬がいても何の不思議もない、おおらかな時代だった。

自家製の極上のカラシ

オヤジは雀荘に入り浸っていることだけは快しとせず、事あるごとに「やめろ」と言われた。が、なかなか抜け出せずにいても、なぜか「あんたは」と目をかけてくれた。だからバイトを頼まれたりしたときは、いつも最優先で馳せ参じた。源兵衛は自家製のものを出すことが多く、名物のシューマイなどに使うカラシも自家製だった。それを練っているとき、急に後ろから「斎藤、怒れ!」と声をかけられた。「ハッ?」と振り返ると、「テメェー、コノヤローと喧嘩腰で練らないと、いいカラシにならないんだよ」と。「ハイ」、なるほど辛みの効いたいいカラシができた。

源兵衛シャモニーズ

オヤジは学生時代にアイスホッケーをやっていて、ウインタースポーツが得意だった。スキーとなると平気でヨーロッパまで行っていた。その年、ツェルマット、シャモニーに行っていた。毎年夏に安部球場で新宿区の早朝野球大会があり、源兵衛でチームを作って出ようということになった。そのときのチーム名が、監督であるオヤジのその年の記念にと、「源兵衛シャモニーズ」にすることになった。

甲子園に出た早稲田の野球部OBをメンバーに入れたり、結構イケるんじゃないかと思ったが、ピッチャーとキャッチャーが良くても試合には勝てない。結果は思わしいものではなかった。試合のあるとき、早朝にもかかわらずオヤジはベンチには入らず、バックネット裏に観戦に来てくれた。何回戦だったか定かではないが、試合終了間際にオヤジを引っ張り出そうと代打に指名したことがあった。もちろん、周りはユニホームに身を包んでいるチームばかりだったが、わがチームにそれほどの気持ちはない。オヤジはいつも厨房にいるときの姿に、どこから持ってきたのか工事現場用のヘルメットを被り、勇躍(違っていたかも?)バッターボックスに立った。その姿は今も忘れない。

番外編 場外乱闘

そう言えば、こんなこともあった。オヤジの友人に草野球チームの面倒を見ている人がいて、オヤジがセットしてくれ、遊びを兼ねてそこ(埼玉・入間川)に練習試合に行くことになった。朝早くから出なければならなかったので、皆ほとんど寝ずに現地に行く感じだった。試合は和やかに終わり、先方が用意してくれた宴会の席でのことだ。寝ずに野球を丸一日やって、ヘロヘロのところにアルコールが入ったので、当チームにその勢いで武勇伝を発揮する者が現れ、会場はそこかしこで火種が発火し、しらふの人間だけでは収拾がつかない状態になってしまった。とにかくその場を退去するしかない。電車があると思って駅に行ったが、田舎は終電が早く朝まで始発を待つことになった。

そのときの退去から朝までの姿があまりにも酷くて、嫌悪を通り越して滑稽にしか見えず、もう笑うしかなかった。武勇伝男はもう既につぶれていて、沖縄・剛柔流の猛者に肩越しに担がれていたが、その背中にずっと噛みついていたらしく、駅で下ろしたときには、猛者の背中にくっきり歯形がついていた。また、駅のベンチで寝小便する奴がいるわ、有刺鉄線をくぐって血だらけになる奴がいるわ、酔った人間の醜態を目の当たりにしてしまった。私が「酒は楽しく飲むもの、飲んでも絶対に飲まれるな!」と肝に銘じたのは、このときだったかもしれない。始発に乗ったら乗ったで、姿が姿だけに気が気ではなかった。

帰ってから説明に行ったら、オヤジはただ「しょうがねぇなぁー」と多くを語らなかったが、コーチ役(兄弟で寿司屋を営む弟の方。オヤジをアニキと仰ぐわれわれのアニキ分)から、こってり搾られた。その頃のメンバーとそうそう会うこともないが、武勇伝男が今どこで何をしているのか、人づてにも聞いたことがない。もし仮に再会しても、酒を酌み交わすことだけは絶対にないだろう。悪夢が蘇るだけだ。

facebook公式ページへのリンク

長期連載中の記事

過去の連載記事