2006 7月カイロプラクティックジャーナル

  2006  7月

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カイロプラクティックを定義する -その3-

投稿日:2006年07月29日

カイロジャーナル56号(2006.7.29発行)より

サブラクセーションの科学

未解明だが否定はされず

1993年のカイロプラクティック研究コンソーシアム(CCR)で、サブラクセーションは次のように規定された。

「アラインメントと動きの統合性、および/または生理学的機能が変化しているが、関節面の接触には損傷のないモーション・セグメント(動的分節)」。この説明は、多少の表現のバリエーションはあるものの、現在最も広く使われているカイロプラクティック・サブラクセーションの用語説明である。世界保健機関(WHO)ガイドラインでもこの説明が採用されている。

歴史的にはサブラクセーションは次の4つの要素を含むと説明されてきた。

  • 1.椎骨のミスアラインメント
  • 2.椎間関節の狭窄
  • 3.神経圧迫
  • 4.神経機能の阻害

である。CCRの定義は、サブラクセーションを起こしている関節の状態に限局して説明しており、その結果引き起こされる問題については記述していない。また、神経学的という用語は使わず、生理学的という言葉に留めている。CCRの定義では、ミスアラインメント、狭窄、神経圧迫、神経機能障害は起こるかもしれないし、起こらないかもしれず、サブラクセーションの特性の説明にはなっていない。

CCRの説明よりも「カイロ的」とも言えるものに、カイロプラクティック大学協会(ACC)が1996年に採択した「カイロプラクティック・パラダイム」がある。「……カイロプラクティックはサブラクセーションに特別な関心を払う。サブラクセーションは機能的および/または構造的および/または病理的な関節の変化の複合体で、神経の統合を危険にさらし、内臓系機能と健康全般に影響を及ぼす可能性がある。サブラクセーションは利用可能な最も合理的、かつ実証的な証拠に基づくカイロプラクティック手法を用いて評価、診断、管理される」。この定義も広く知られたものである。カイロプラクティックの大学連合であるACCが採択していることもあり、CCE認可のあるカイロプラクティック大学のほぼすべてで教えられている。しかしこの内容は、科学的ではないという批判がある。オーストラリアの『カイロプラクティック・オステオパシー・ジャーナル』に2005年に発表された「サブラクセーション:ドグマか科学か」でジョセフ・キーティングらは、裏付けに乏しい、検証不可能なことを述べているなどの問題点を挙げた。次に引用する。

ACCパラダイムは(公的ではないとしても)この専門職に広く標準的地位を得たが、いくつかの問題がある。第一に、「サブラクセーションは…神経の統合を危険にさらす」と無条件に言及している。つまりほとんど検証されていない主張、仮説であることを述べていない。「神経の統合」という仮想的特質についても述べていない。

第二に、サブラクセーションは「内臓系機能と健康全般に影響を及ぼす可能性がある」という分節である。…可能性があるとは、すべての症例に当てはまらないかもしれない、健康によい影響を与えない可能性もあるという意味に取れば、サブラクセーションの仮定的要素を知らせていることにもなるが、それならばACCの提言が、サブラクセーションに焦点を当てることによって、カイロプラクティックが「健康の回復と保持をする」と宣言していることに反する。

最後にACCでは、カイロプラクティックはサブラクセーションを決定、修復するのに「利用可能な最も合理的かつ実証的な証拠」を用いると述べるが、これは偽科学を思い起こさせるのである。なぜならACCは彼らの断定することの証拠を提供していないからであり、私たちの知り得る限りの証拠からは、サブラクセーションの臨床的意義を結論づけることはできないからである。私たちの知る限り、サブラクセーションの特定と修正の方法、危険にさらされた神経の統合を定量する臨床的方法、サブラクセーションの修正のもたらす健康上の利点に関して書かれた利用可能な文献はない(引用終わり)。

キーティングらは「私たちが避けなければならないのは、現在の知識からの憶測で理論を事実として説明することである」と述べ、科学的に解明されていないサブラクセーションの概念を、あたかも自明のこととして語ることを強く否定するのである。

それではサブラクセーションに関連して、これまでにどのような研究がなされたのだろうか。

これまでの科学的研究

動物実験

多くの動物実験が、サブラクセーションの性質、脊椎マニピュレーションの機序を解明するために行われている。痛みの神経伝達経路、機械的刺激に対する自律神経反射経路、刺激に対する靱帯や筋肉の組織変化、脊椎傍筋への刺激と筋紡錘の過敏性との関係など、神経、生理、組織学的なさまざまな研究が行われてきた。しかし、サブラクセーション理論の構築に向けての科学的研究は未だ断片的である。

解剖学

特に椎間関節と椎間板の三関節複合体に関する組織学的、力学的、神経生理学的研究が焦点が当てられてきた。頸椎、胸椎、腰椎それぞれにおける痛みの発生部位の特徴なども調べられている。これらの知識は主に一般解剖学の研究成果だが、カイロ研究者がカイロの臨床的観点からまとめ直したり、カイロ的な関心のある項目に関して独自の研究を進めている。

触診

触診に関しては、検査者間の再現度の信頼性に関して多くの研究が行われたが、静的触診、動的触診を問わず信頼性、一貫性は低いという結果に終わっている。患者の選定を含めた研究手法の改善により、触診の診断的価値は将来証明される可能性もあると考えられている。

一方で、マニピュレーションを施すべき真のサブラクセーションとは、特定的であり検査者間で同じであるはずという前提こそ問い直されるべきではないかとも考えられている。違うセグメントであっても、特定的で洗練されたアジャストメントにより、同等の臨床効果が得られるのではないかという仮説である。個々のカイロプラクターが特定したセグメントをアジャストすることにより、症状の軽減などの臨床的改善が起こることは、多くの統計的研究で確認されているからである。触診の臨床的意義はさらなる解明が必要である。

レントゲン学

姿勢と構造的異常をレントゲン写真を使って研究したのは、BJパーマーが最初である。姿勢と構造的異常を立位の体重負荷状態で撮り、分析することをスパイノグラフィーと呼ぶが、これはカイロ・レントゲン学とほぼ同義語である。

サブラクセーションまたは構造異常を特定し、それを臨床上役立てるためにレントゲンを撮るべきかどうかは、カイロ界で議論が分かれるところである。病理発見のためのレントゲンの利用価値は証明されている。しかし生体力学的問題の特定と、その臨床への利用という目的達成のためにレントゲンを利用することは、これまでの研究から有効性が証明されていない。側弯症、すべり症など医学的な疾患とされるものは別として、カイロ的な構造の異常は、正常範囲の変形、奇形との鑑別基準が確立できない。スパイノグラフィーが科学的に証明されるとしたら、それはサブラクセーションの構造的な解明に直接結びつくだろう。

たゆまぬ科学研究の努力はカイロプラクティックの伝統ではあるが、サブラクセーションを特定するには至らない。一方で、カイロ・アジャストメントの有効性は、膨大な症例報告と統計学的な臨床研究から確立されている。

作用機序は明らかではないが、非常に有用であるということは、医学の世界でも珍しくない。例えばアスピリンは最も古い薬剤の一つだが、その鎮痛作用が解明されたのは30年前のことに過ぎず、血栓予防などの薬理作用は未だにわかっていない。しかし統計学的に臨床的有効性は確立されているという点で「科学的」利用が実現していると言える。

有効性は確立されているが機序は解明されていないという点で、カイロプラクティックもアスピリン的な立場にある。だからサブラクセーションは仮説またはモデルとして扱い、患者や社会に対してもその一線を越える説明はすべきではない、という主張は妥当であろう。しかしこれがなかなか受け入れられない。「サブラクセーションはカイロおよびカイロプラクターの存在意義であり同義語である」とするカイロプラクターが本場北米には少なからず存在する。ACCの定義もカイロプラクターの願望の表れかもしれない。

サブラクセーションは解明されていないが否定されたわけではない。カイロプラクティックに関わるのであれば、「サブラクセーション仮説」の詳細と現在解明されている事実に関心を失うべきではないだろう。それらを踏まえての臨床が最もよいカイロプラクティック・ケアにつながっていくのではないだろうか。


3回にわたった「カイロプラクティックを定義する」の連載はこれで終了します。一人一カイロとも言える治療の世界ですが、歴史的、制度的、および学術面からカイロプラクティックの枠組みの紹介を試みました。この連載は櫻井京が担当しました。

<第4回>カイロプラクティック・フィロソフィーのルール

投稿日:2006年07月29日

カイロプラクティック・フィロソフィーのルールを敬遠せずに尊重しよう
カイロジャーナル56号(2006.7.29発行)より

理解を妨げる語感

「カイロプラクターとして成功するためには何が大切ですか?」今まで幾度となくこの質問を受けてきた。何が成功なのかという定義も人によって違うし、私自身が成功していると言えるのかという問題もあるが、私なりに毎日患者の診療にあたり、長年それを続けていく上で何が大切かという意味で考えると、幾つかの大切なものが頭に浮かんでくる。その中でも特に、多くの学生や若いドクターがなかなかすんなりと理解できないのが、カイロプラクティック・フィロソフィーの大切さだ。

カイロプラクティックは、科学であり、芸術であり、そして哲学である、と多くのカイロの本や教科書に記述されていて、カイロを勉強した者なら誰でも目にしたことのある一節だろう。そしてこの一節を見聞きして、何となくピンとこなかった人も多いはずだ。科学という言葉は魅力的だ。科学イコール事実というイメージがある。必ずしもそうでないことは歴史を見ればわかるが、とりあえず時代の先端のイメージがあり、科学的に証明されることの大切さも否定できない。

次に芸術。ここで「?」マークが頭に浮かぶ人もいるだろう。「科学と言いながら芸術とは?」科学は誰もが文句を言えない事実という性格を持ち、芸術とは極めて個人的、主観的、そして自由な解釈が大切なジャンルだ。すなわち自分がわかればいい、わかる人がわかればそれでいいものだ。万人がよいと感じる芸術など存在しない。それぞれの解釈、理解、嗜好が許されるのだ。それでも「手技療法」という極めて施術者の個性が出やすい治療において、各個人のセンスや才能が大きなファクターとなってくる点では「技」という種類の芸術と言えるだろう。

そして、問題の哲学だ。哲学という言葉は日本人には馴染みにくい。ソクラテスかプラトンかというイメージが強く何やら堅苦しくて難しい、できれば敬遠したい雰囲気を醸し出す言葉だ。

アメリカでカイロを勉強していても学生の中には哲学、フィロソフィーがよくわからないという者が多い。そして、卒業して実際の臨床にあたると、その大切さが身にしみてわかるようになる。それでもわからない者の多くはやがて廃業したり、カイロとは別の療法へと流れたりしていく。

どうして日本で哲学の大切さが理解されないかを考えたときに、まず「哲学」という言葉の響き、科学的ではない精神面のディープな難しい世界、というイメージが邪魔しているような気がする。アメリカでカイロを勉強した私にも、実は哲学という日本語はしっくりこないのが正直なところだ。なんか重いイメージなのだ。実は哲学だけでなく「科学」や「芸術」という言葉も同様だ。

これだけカタカナが多く日本語に入っている現代に、無理に英語を漢字に直さずともカタカナ表記にすれば、よりそのニュアンスが伝わるというものはたくさんある。だから「科学、芸術、哲学」も「サイエンス、アート、フィロソフィー」の方が、妙な小難しさがなくて受け入れやすいというのが私の感覚だ。だから私は「哲学」という言葉は使わず、「フィロソフィー」という言葉を使っていきたいと思っている。次にフィロソフィーが敬遠される理由は、われわれがテクニック理論とフィロソフィーを混同してしまっていることにある。

勝手に変えられぬ

カイロプラクティックの定義内でもいろいろな理論やテクニックが存在する。われわれはフィロソフィーとテクニック理論を混同するあまり、実はフィロソフィーは同じなのに、テクニック理論の違いを激しく議論し平行線をたどる間違いを犯しがちだ。たとえフルスパインのテクニックでも、上部頚椎のテクニックでも、理論や方法は違うものの手技によりサブラクセイションをアジャストし、イネート・インテリジェンスを呼び起こすというフィロソフィーは同じなのだ。

本来フィロソフィーというものは断定的なものでなく、いろいろな考え方を議論して人生を豊かにするもので、白黒ハッキリした世界ではない。しかしカイロプラクティックにおいては、創始者DDパーマーがつくり上げたものなので、彼がつくり上げたカイロプラクティック・フィロソフィーを何人たりとも変えることができない。それを自分の都合に合わせて変えてしまうから問題が起こる。カイロプラクティックをやりたいのなら、そのルールを尊重しなければならない。後から来て勝手に変えるべきものではない。そんな権利はないのだ。そこでフィロソフィーを学んだり、議論したりするときの問題を最小限にするために、私なりにルールをつくってみたので参考にして欲しい。

私が考えたルール

まずルールの第一番は、議論は大いに結構だが感情的にならない。二番目は、他人の意見を自分のものとは違うというだけで頭から否定しない。三番目は、自分の都合に合わせてフィロソフィーを勝手に捻じ曲げない。理想と現実は常に存在するのだから、自分がうまくフィロソフィーを実践できないからと過剰反応して、今の自分を正当化するために無理に捻じ曲げて自分に都合よくする必要はないのだ。でも、正しくありたいという欲求が強すぎるとそうなってしまう。

ということで四番目は、理想と現実のギャップはあるのだから、フィロソフィーと実際の自分にギャップがあっても自分や他人を責めない。五番目は、フィロソフィーはカイロプラクティックや自分を高めていき、患者のために役立てるものだと理解すること。六番目は、フィロソフィーはカイロプラクティックの存在意義やアイデンティティを守るため必要なことだと理解する。七番目は、フィロソフィーとカイロプラクティック・テクニック理論を混同しない。

以上が、私が考えたフィロソフィーを考える上でのルールだ。これで、少しはフィロソフィーの食べず嫌いが減ってくれればと願う。フィロソフィーはわれわれがカイロプラクターとしてのアイデンティティを守り、長くやりがいのある仕事として続けていくために最も大切なものだからである。次号ではさらにフィロソフィーの中身について触れてみたい。

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