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この人に会いたい
小柳公譽D.C.「すべては患者さんのための治療であれ」(1)

小柳公譽D.C.

今、注目の「シンクロ矯正法」。その考案者である小柳公譽D.C.にお話を伺うため、東京・町田の駅前にあるオフィスをお訪ねした。カイロプラクティック、鍼灸、あん摩マッサージ指圧、整体術、そのすべてを統合させ、患者のための治療を心がけながら、エネルギー療法を操る生粋の治療家である。その温厚な語り口からは想像もできないような、治療に対する凄まじいばかりの執念が感じられた。

斎藤:この2,3年、何かと依頼事ばかりで恐縮しておりますが、今日はインタビューということで、先生にいろいろなお話をお伺いしたいと思っています。よろしくお願いいたします。
まず、先生が中央(大学)の心理学科を卒業して、カイロプラクターになるまでのストーリーをお聞かせいただけますか?
小柳:卒業した当時は就職難で、文学部心理学科卒では就職のことなど、とてもまともには考えることのできない時代でした。60人ほどいた卒業生のうち、何人かは教師になったりしていましたが、ほとんど就職口がなく私は四谷の鍼灸学校に行くことにしました。
斎藤:心理学を学んでから鍼灸へ、何か特別な魅力を感じて入ったんですか?
小柳:若い頃にヨガをやっていて、その道場に鍼灸師や整体術の人とか、少林寺拳法の達人とか、体に関係する人が結構集まっていたんです。その中には、今話題の古武術家の甲野善紀氏もいましたね。余談ですが、彼とは10日間ぐらい一緒に寝泊まりし、2階から飛び降りるときの着地の仕方とか、一方手裏剣を畳に突き立てる投げ方とか、忍術を教わりました。
大学を卒業したとき、鍼灸、整体術、カイロプラクティック、オステオパシーなどという名前だけは知っていました。それでその頃は、日本で食べていくためには鍼灸が一番無難かなと思い、鍼灸の学校に入ったんです。しかし自分としては鍼灸一筋というよりは、むしろいろいろなものが混ざり合った、ゴチャゴチャとしたもののほうが性に合っていると思っていました。
夜は学校、昼間は鍼灸院のアルバイトに明け暮れていましたが、バイト料は月額3万円だったと記憶しています。それで勤め始めたら、その鍼灸院の院長が「いっそのこと、近くに引っ越して来たらいいじゃないか」とアパートを紹介してくれたのです。しかし、その家賃がなんと3万7千円。最初の3カ月は親から仕送りをしてもらっていました。3カ月が過ぎると見習いも終わり、給料も6万円になり、12万円になり。1年が過ぎる頃には30万円くらいになっていました。歩合ですから。
斎藤:学生では、まだ鍼が打てなかったのでは?
小柳:免許を持っている人の監視下であれば問題ありませんでした。
その頃のことなんですが、あるときギックリ腰の患者さんの治療をしていまして、その患者さんが思いっ切り私の肩にもたれ掛かってきたんです。何気なくそれを受け止めようとしたら、私がギックリ腰になってしまいました。患者さんは歩いて帰って行ったのに、今度は自分が歩けなくなってしまって。
それで、ある人の紹介で目白のカイロプラクティック治療院に行ったんです。普通のマンションの2階にあり、入ったら空手着に黒帯を締め、ランニングシャツ姿の怖そうな男性が3人いて、ぐりぐりと腰をやる訳です。今になって思えばディバーシファイドですよね。結局歩いて行ったのに、歩いては帰れなくなってしまいました。
斎藤:インチキ?
小柳:まあ下手だったんでしょう。私自身、腰を捻って鳴らす癖があったので、普通のレベルでは治療できなかったのかもしれません。それでまた友人に泣きついたら、今度は誰あろう当時、四谷駅前で開業していた加瀬建造氏を紹介されました。SOTのブロックを置き、操体法のようなことをやったら、骨盤がグリグリッと動くのが実感できました。来るときはバス停2駅を1時間かけて来たのに、帰りはスキップを踏むような感じで帰れたのです。そのとき、D.C.というのはこんなに凄いんだ、と。
それで、彼がセミナーをやっていたので受講することにして、半年ぐらい受けたんですけど、何を言っているのかさっぱり分からない。周りの人はみんな「うんうん」って言って盛んにノートを取っている。私は分からないからノートも取れない。これはもう、アメリカに行くしかない、と思い、1年ぐらい頑張って働きお金を貯めました。
斎藤:初めからアメリカだったんですか?
小柳:まず鍼灸仲間の紹介でハワイに行き、そこでいろんなことを調べ始めました。次にロサンゼルスに渡ってカイロプラクティックの大学に申し込んだら、「単位が足りません」と。自分は文系ですから。それで単位を取るために、近所の大学を10校以上申し込んだのに、どこもダメ! 最後の一つがダメだと分かったときには、さすがにヘナヘナヘナって。そこから胃が動かなくなって、水も飲めない、夜も眠れない、3日くらい飲まず食わず寝ずの状態になってしまいました。
とりあえず、もう一度クリーブランド(カイロプラクティック大学ロサンゼルス校)に行って相談してみようと。面接をしてくれた人が「まあ君は英語も話せるし、日本から持ってきた成績も問題ないから、サンフランシスコにあるプレ-カイロプラクティック・コースを受けたらどう?」と言ってくれたので、素直にサンフランシスコへ行ったら、そこでも断られ、まさに万事休す。
途方に暮れて、学校の前にある花壇の縁石にヘナッと腰掛けて呆然としていたんです。そうしたら1歳くらいの男の子が、ヨチヨチ歩きで近づいて来て覗き込むので、「うわぁー、かわいいね!」と持ち上げてあげたんです。後ろではお父さんらしき人がニコニコと笑っているんです。「君、ここで何をやっていたの?」って聞いてきたので、「今、ここの学校に入学を申し込みにきたら、留学生だからダメだと言われて困っているんです。」と答えたら、「う〜ん。ちょっと待ってて」と言って、男の子をダッコして学校の中に入って行ったんです。10分くらいすると戻ってきて「OK!」と言うので、「何がOK?」と聞くと、「入学OK。次の学期から来なさい。自分はここの副校長なんだ。その代わり特例だから一科目目の化学をパスできなかったらアウトだよ」、そういうことがあってやっと入学出来ました。
入ってから、化学を生まれて初めて英語で勉強しました。ほとんど分かりません。分からなくても、とにかく受講し続けました。毎週テストがあって、BとかCを行ったり来たりしていました。5、6週のコースで最後のテストは、全部丸暗記して行ったらAが取れたんです。続くあとの3つのコースも、やはり何を受けても分からなかったのですが、最後のテストではBかAが取れました。
全部通って、終わったのが12月27日で、年末も年末。「合格通知はクリーブランドに直接送るから、すぐ行きなさい!」と言われ、ロサンゼルスに戻ってクリーブランドに行き、「プレ-カイロプラクティック・コースをパスしました」と言ったら、「では1月2日から入学してください」。27日にプレ-コースが終わって、28日にロサンゼルスに戻り、1月2日から入学。なんと慌ただしい年末年始だったことか! サンフランシスコのプレ-コースで一緒だった120人ほどいた学生の中の、7人ぐらいがクリーブランドで同級生になりました。
斎藤:クリーブランドに入学されてからはいかがでした?
小柳:やはり英語で苦労しました。
斎藤:やはり、話すのと学ぶというのは全然違いますか?
小柳:違いますね。黒板に書いてある英語を写して本を読む、これはまだ分かります。きっちりと話してくれる授業は分かるんですが、雑談のような授業になると分からなくなってしまう。半年ぐらいはそんな状態でした。だから学校でとりあえず取れるノートは取り、聞き取れたのは単語でもいいから書き留め、あとは帰ってから教科書とか参考書で調べました。寝るのはいつも1時か2時。朝は6時に起きないと7時15分からの授業に間に合わない。だからいつも青い顔をして、寝ているんだか起きているんだか分からないような感じで車を運転して行きました。
1学期4カ月が終わったら全部合格できて、それでホッとして2学期目には、ようやく余裕が出てきました。半年が過ぎた頃には、あまり不自由することなくノートも取れたし、話は盛り上がらないけど、周りとも会話ができるようになりましたね。
斎藤:クリーブランドでの同期となりますと…
小柳:大学は1から10学期という風に数えます。毎学期入学があり、毎学期卒業があるわけです。私が入学して1学期生になったとき、8学期に(高橋)久人さん、(成瀬)隆ちゃん、6学期に慶応法学部出身で、今は大学で公衆衛生を教えている安達(和俊)さん、5学期に青山((正)さん、一つ上に日本生まれ育ちの中国人Dr.ロッキー・リーがいました。久人さんはほとんど毎日、私の家にご飯を食べに来ていましたね。安達さんも時々私のところに鍼を打ってもらいに来ていました。久人さんの学生クリニックでは私が患者第1号ですよ。その後、主席で卒業され、私の中の憧れでしたけど、なかなかなれるものではないですね。
あの頃は、カイロプラクティックをよくやりましたけど、自分の中では、整体術や接骨術など代替医療を統合したもので、アメリカのカイロプラクティックが超えられるのではないかと考えていました、特に日本で。カイロプラクティックだけなら、アメリカがNo.1、日本がNo.2にどうしてもなってしまいます。あん摩マッサージ指圧など、患者さんにとって非常に効果の高いものも受け入れながら、カイロプラクティックと併せて発展させていきたいという思いがありました。
斎藤:前回のこのコーナーで松久正さんに登場していただいたんですが、彼はガンステッドを日本から発信しようと。日本人の高い精神世界に対する素養を組み入れれば、日本からより質の高いカイロプラクティックが発信できるはずだ、と
小柳:ガンステッドを日本から発信するとなると、ハードルはかなり高いんじゃないかなと私は思いますね。ガンステッドは素晴らしいと思いますが、日本の患者さんにある程度理解して来ていただくとなると、全体の1割ぐらいになってしまうのでは。本場のガンステッド・クリニックみたいにアメリカ全土から患者さんが飛行機で乗り付けるような発展はなかなか難しいんじゃないかと感じますけど。
斎藤:いろいろ、諸々あるものすべてを代替医療と仮定したときに、先生がやられているエネルギー治療も代替の枠で捉えてよろしいのですか?
小柳:私自身はそういうイメージでいます。
斎藤:エネルギー治療により、良い結果が出るとそこから離れられなくなる。結果だけがどんどん一人歩きをしてしまいます。本来、それで良い結果を出すためには、カイロプラクティックやいろいろな治療がベースにあってのことなんですよね?
小柳:患者さんにとって、効果があるものは取り入れていく。私にとってはカイロプラクティックも治療におけるワン・オブ・ゼムでしかないんですよ。ただ、カイロプラクティックが原点であってもいい訳で、私がセミナーの中で、カイロプラクティックのオーソドックスなテクニックを教えるのは、出発点をしっかり忘れないで欲しいためです。
ただ、エネルギー治療の説明は非常に難しい。私自身もうまく説明ができません。
斎藤:一つのテクニックを究める、追求するというのは?
小柳:一つだけのテクニック、考えで、というのは私の中にはありません。いろいろなエネルギー治療をカイロプラクティックに応用できればいいかなと思います。アメリカでカイロプラクティックの勉強をしてきた人たちは、言葉は悪いですが洗脳されて帰ってきます。アメリカ人特有の傲慢さをきれいな言葉に言い換えて教育をされ、洗脳されてしまいます。5年、10年ぐらいはその洗脳が日本に帰ってきても解けない。しばらく頑張ってやっていると、どうも違うのではないかと気づき始めます。20年ぐらいやっていると、ずいぶん浅いところでやっていたなと分かります。若いカイロプラクターたちが「それってカイロプラクティックですか?」と。でも、「それがどうした!」という感じです。私自身、鍼灸師であり、あん摩マッサージ指圧師であり、整体術師であり、カイロプラクターですから。

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