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岡井健DCのI Love Chiropractic ! <第4回>カイロプラクティック・フィロソフィーのルール2006.07.29

カイロプラクティック・フィロソフィーのルールを敬遠せずに尊重しよう
カイロジャーナル56号(2006.7.29発行)より

理解を妨げる語感

「カイロプラクターとして成功するためには何が大切ですか?」今まで幾度となくこの質問を受けてきた。何が成功なのかという定義も人によって違うし、私自身が成功していると言えるのかという問題もあるが、私なりに毎日患者の診療にあたり、長年それを続けていく上で何が大切かという意味で考えると、幾つかの大切なものが頭に浮かんでくる。その中でも特に、多くの学生や若いドクターがなかなかすんなりと理解できないのが、カイロプラクティック・フィロソフィーの大切さだ。

カイロプラクティックは、科学であり、芸術であり、そして哲学である、と多くのカイロの本や教科書に記述されていて、カイロを勉強した者なら誰でも目にしたことのある一節だろう。そしてこの一節を見聞きして、何となくピンとこなかった人も多いはずだ。科学という言葉は魅力的だ。科学イコール事実というイメージがある。必ずしもそうでないことは歴史を見ればわかるが、とりあえず時代の先端のイメージがあり、科学的に証明されることの大切さも否定できない。

次に芸術。ここで「?」マークが頭に浮かぶ人もいるだろう。「科学と言いながら芸術とは?」科学は誰もが文句を言えない事実という性格を持ち、芸術とは極めて個人的、主観的、そして自由な解釈が大切なジャンルだ。すなわち自分がわかればいい、わかる人がわかればそれでいいものだ。万人がよいと感じる芸術など存在しない。それぞれの解釈、理解、嗜好が許されるのだ。それでも「手技療法」という極めて施術者の個性が出やすい治療において、各個人のセンスや才能が大きなファクターとなってくる点では「技」という種類の芸術と言えるだろう。

そして、問題の哲学だ。哲学という言葉は日本人には馴染みにくい。ソクラテスかプラトンかというイメージが強く何やら堅苦しくて難しい、できれば敬遠したい雰囲気を醸し出す言葉だ。

アメリカでカイロを勉強していても学生の中には哲学、フィロソフィーがよくわからないという者が多い。そして、卒業して実際の臨床にあたると、その大切さが身にしみてわかるようになる。それでもわからない者の多くはやがて廃業したり、カイロとは別の療法へと流れたりしていく。

どうして日本で哲学の大切さが理解されないかを考えたときに、まず「哲学」という言葉の響き、科学的ではない精神面のディープな難しい世界、というイメージが邪魔しているような気がする。アメリカでカイロを勉強した私にも、実は哲学という日本語はしっくりこないのが正直なところだ。なんか重いイメージなのだ。実は哲学だけでなく「科学」や「芸術」という言葉も同様だ。

これだけカタカナが多く日本語に入っている現代に、無理に英語を漢字に直さずともカタカナ表記にすれば、よりそのニュアンスが伝わるというものはたくさんある。だから「科学、芸術、哲学」も「サイエンス、アート、フィロソフィー」の方が、妙な小難しさがなくて受け入れやすいというのが私の感覚だ。だから私は「哲学」という言葉は使わず、「フィロソフィー」という言葉を使っていきたいと思っている。次にフィロソフィーが敬遠される理由は、われわれがテクニック理論とフィロソフィーを混同してしまっていることにある。

勝手に変えられぬ

カイロプラクティックの定義内でもいろいろな理論やテクニックが存在する。われわれはフィロソフィーとテクニック理論を混同するあまり、実はフィロソフィーは同じなのに、テクニック理論の違いを激しく議論し平行線をたどる間違いを犯しがちだ。たとえフルスパインのテクニックでも、上部頚椎のテクニックでも、理論や方法は違うものの手技によりサブラクセイションをアジャストし、イネート・インテリジェンスを呼び起こすというフィロソフィーは同じなのだ。

本来フィロソフィーというものは断定的なものでなく、いろいろな考え方を議論して人生を豊かにするもので、白黒ハッキリした世界ではない。しかしカイロプラクティックにおいては、創始者DDパーマーがつくり上げたものなので、彼がつくり上げたカイロプラクティック・フィロソフィーを何人たりとも変えることができない。それを自分の都合に合わせて変えてしまうから問題が起こる。カイロプラクティックをやりたいのなら、そのルールを尊重しなければならない。後から来て勝手に変えるべきものではない。そんな権利はないのだ。そこでフィロソフィーを学んだり、議論したりするときの問題を最小限にするために、私なりにルールをつくってみたので参考にして欲しい。

私が考えたルール

まずルールの第一番は、議論は大いに結構だが感情的にならない。二番目は、他人の意見を自分のものとは違うというだけで頭から否定しない。三番目は、自分の都合に合わせてフィロソフィーを勝手に捻じ曲げない。理想と現実は常に存在するのだから、自分がうまくフィロソフィーを実践できないからと過剰反応して、今の自分を正当化するために無理に捻じ曲げて自分に都合よくする必要はないのだ。でも、正しくありたいという欲求が強すぎるとそうなってしまう。

ということで四番目は、理想と現実のギャップはあるのだから、フィロソフィーと実際の自分にギャップがあっても自分や他人を責めない。五番目は、フィロソフィーはカイロプラクティックや自分を高めていき、患者のために役立てるものだと理解すること。六番目は、フィロソフィーはカイロプラクティックの存在意義やアイデンティティを守るため必要なことだと理解する。七番目は、フィロソフィーとカイロプラクティック・テクニック理論を混同しない。

以上が、私が考えたフィロソフィーを考える上でのルールだ。これで、少しはフィロソフィーの食べず嫌いが減ってくれればと願う。フィロソフィーはわれわれがカイロプラクターとしてのアイデンティティを守り、長くやりがいのある仕事として続けていくために最も大切なものだからである。次号ではさらにフィロソフィーの中身について触れてみたい。

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